春の囀

2004年4月2日 日常
なんだかぼーっとしてしまって、文章が書けないような感じです。試しにちょっと綴ってみようかと。自分語で入ります。

*

もうひとりコドモが欲しい、というんではナシに、もう一度『赤ちゃん』を抱っこする日々を持ちたい、などと思う。もう一度新生児からおむつが外れる〜幼稚園入園前くらいまでの乳幼児を側において生活がしたい。赤ちゃんの面倒を見たい。隣で寝顔を見つめたい。小さい手を握りたい。匂いを嗅ぎたい。抱っこがしたい。いろんな発見を楽しみたい。

…なんて、突拍子もないことを考えちゃいましたが、だって、コドモはいつの間にか大きくなってしまう。赤ちゃんでいてくれる時期は、本当に人生の中の短い限られた時期だけ。いちばん上のコドモがもう今年高3になる(なんか、信じられないのですが、月日の流れるのはあっという間だ)というのに、わたしは未だに彼女が赤ちゃんだった頃が忘れられないし、ああした、こうした、あんなことを言った、と本人に「懐かしいねえ」と細細と話して聞かすと、「やめてー(つД`)」と嫌がられている(笑)。3人に3人とのいろんなエピソードを語って聞かすのが楽しい。

当のコドモたちは、今よりもっとコドモだった頃の自分の幼い言動を恥ずかしいと思っているようで、ちょっと怒ったり慌てたり、「お母さん酷いよ」とか言われたりする。おいおい、こっちは生まれた時からずっと知っているので(当たり前)どんな行動について語ることにも悪意・他意はないのに…。純粋に面白かったんだよ、という話がしたいだけなのにね。わたしにはもう話してくれるひとが存命していないので、コドモには今のうち教えたい、とも思っているのですが(余計なお世話?)。

そしてもう乳幼児のいないちょっとだけ進化した(っていうより年老いた)現在の家庭も、それはそれでネタは満載なのですが、わたしの中には『ちいさいもの』の存在がまだ半分以上占めているような感じがする。赤ちゃんが懐かしい。赤ちゃんパワーは何よりも魅力的で強かった。こういうことを考えているからといって、わたしが『良いお母さん』だったとはとても言えない。ただ生んでみたらものすごい興味が湧いて、自分ひとりで楽しんでいただけ(自己満足)なのだから(笑)。ついでにコドモの方も一緒に楽しんでくれたらラッキー、くらいのヴァカ母ですよ(爆)。てゆか、そんなにワルイわけではないけど自己中で、厳しいのか甘いのか解からない、肝腎な時に間抜けなことする「手を焼かせる」お母さんかも(汗)。自分でもよくわからんです。

最初に『タマ(仮名)』、と名付けた女の赤ちゃんに出逢って、その後モモ・チビ子と家族が増えて、いろんな感情をわたしから引き出して、時には泣かしたり泣かされたりもして、毎年春が来て、もう18週目になろうとしている。つまり、お母さんはもういつの間にかヤングなママじゃなくなっている訳だったりもする。だから益々赤ちゃんが恋しくなってしまうのかも? 

年取ってから始める子育てっていうのも、ちょっと興味があるのですが、だからってもちろん、これ以上『わたし』が我が家の人口を増やすということは、まず今も将来もあり得ないことは確実です(笑)。願望、というほどでもなく、〜だったらいいなあ、と思うことを言ってみただけ。

ちなみにわたし的感覚では、5・6歳を過ぎた『児童』以降のコドモに対しては、いまいち人見知りをしてしまうところがあります。波長の合う合わないがもうなんとなく出来ちゃうんですよね。わたしに懐いてくれたコドモっていうのも、経験からですが、なんかわたしがちょっと恐れているタイプのコドモ、とは違う。タメ口で話せる(敬語を遣わない、という意味ではない)コドモだったりします。

思いつくままに書いていったら、今日も話が飛びまくってしまいました。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索