いやいやいやいや。「名付け」ですってばよ!このPC誤変換バカ過ぎて残念過ぎる。でもわたしもどうやって直したらいいのか分からないくらいにバカなのでおあいこ。


 わたしは思想的にジェンダーがどうのこうの、って言えるほど何も特別に支持したりしなかったりとか普段意識してはいませんが。なんでも成りゆきです。

 が、子どもの名付けって、やっぱり一目で男性か女性かって、ふつうに判別できる寄りの名前付けるほうが良い、とは思っています。

 権利とか平等がとかそういうんじゃなくて。どこ行っても、まだ顔見てなくて書類上だけとしても、自分の性別と違う方で判断されて処理されていたり、印刷されちゃってたりしたら不便だと思うからです。こんなことって、どうでもいいように思うけど、意外と(意外でもないか)面倒な感じになるんですよね。たとえ幼児だってそうですよ。

 何のために個人個人に「名前」付けるの?ってたち帰ったら、どうしてもそう思う。好みで言うと、語感がきれいな名前が好きです。一生呼ばれるんだものね。

 まあ、一意見として。
 嬉しく思うことをしてもらえて、それにありがとうと言えて。わたしがしたことに、ありがとうと返ってくることもあって。気持ちひとつ報われて。

 自分から起こしたアクションに、ちゃんとレスポンスがあって、わたしもそれを受け止めて、お互い伝わりあった。お互いの意思と意思が、お互いをちゃんと見て、聞いて、応えて、ひとつ完結した。


 ここでもう終わりにしておけば、幸せな思い出だけになって終われるのに。

 続きを夢見てしまうよ。いつだってこんなふうに続いていければいいのになあって。

 それは無いものねだり。
 忘れるように抜け出せるように結構いろんなこと楽しいこともっと別の頭使うことしてきたけど。こんな日はどうしようもなく押し寄せてくるな。


 さみしいよ。

 遠いよ。
 昨夜、夜のうちの最後の最後の方に、思いがけずまたひとつとても嬉しいことがあったのですが。
 それは、平素ちゃんとコミュニケーションがきちんと取れていれば、わたしからも間髪入れずにお礼と感激の言葉を述べられたこと、だったのに。

 ほんとに、その行為は心から嬉しくて、ああ今ここで何もかもが報われた気持ちになって泣けるかも…ってくらい嬉しかったのにもかかわらず、涙まで出なかった。自分でもあれー?って感じです。

 前に「褒めてもらえた!」って書いた時や、「きき入れられた言葉」でも分かるように、わたし、いちばん最初にダイレクトに入ってきて感情に触れるのは、どうしても「自分に向けられた言葉」なんだな、って、改めて実感してしまった。始まりは言葉ありき。

 もちろん、口でだけ上手いこと言って本当は全然そうじゃなかった、みたいな人もいるでしょう。一回くらいなら騙されても…なんて思ったりしてバカだな。それはそれで、ずっと見ていれば解かってくることだから。いくらわたしでもいつかは解かるんだ。言葉が取っ掛かりと言っても、ずっとそれだけが頼り、とも思わないのは当たり前のこと。そうやって距離が近づいて行くんだ。

 で、切っ掛けとして、手向けられた言葉には反応良いんだけど、黙ってされる行為は思いのほか解かり辛い。それこそ、そんなこと得意じゃないし好きでもないけど、それが嬉しいほどに「裏の裏があるのか」とか、一体どういった意図で?って考えちゃう。これって、喜んでいいのかな?って、無意識でブレーキ掛かってしまう、みたい。

 面倒くさい生き物だ。自分で思ってるよりずっと単純な癖にな。 
お星さまの数字
お星さまの数字
 空いてて良かった、うれしい!の履物入れからの、
 なんと、偶然にも受付で渡されたロッカーの鍵まで!

 これでもう、これからの時間絶対に楽しくないわけない、
 と確信しました。
 わたしは、その人を心から信じてるからその人の言うこと素直に受け入れる、なんてことができない人間なのですが。いや、実は「そんなことない!」って長年思っていたけど、実際はできない、全然できてなかったことに気が付いたんですが。

 誰でもよかった、そう言ってもらって滂沱したのは、「それでもあなたはいつかそれを乗り越えられるよ。今はできないって思っても、あなたは必ずそうしようとするよ」って言う言葉です。

 何も具体的な解決になってないけど。とても救われました。誰にでも当てはまるのかもしれませんが、わたしがそうしたい、ってことを後押ししてもらえたって。

 残念なのは、わたしが同じ言葉を他人に言ってあげても、まったく説得力無いことですね。苦笑。
 非常に難しいところ。

 いわゆる「メンヘラ」についていちいち説明するのもわたしには難しいので、それぞれの持っているイメージで考えてもらって構わないと思う。


 たぶんに「メンヘラ」と呼ばれて特に差し支えない時期があったとは思います。そして常時「メンヘラ」でいるのも大変にラクじゃありません。隠すのなんてもっとラクじゃありませんきっと。


 それからよく思い出してみるに、前から別に「構ってちゃん」ではありませんでした。
 むしろ、わたしが構ってあげないといけないのかな?って思っていた時のが遥かに多かった。それが多大なる勘違いであっても。その時はそうしないと離れて行かれちゃう、切られちゃう、と思っていました。だいたい「ナントカ要員」でした。
 (コメントでもなぐさめでも褒めでもなんでも)

 それも一種の構ってちゃんかもしれませんね。でも逆の態度(スタンダードメンヘラ)は怖くてできませんでした。こっちから要求とか…。思い通りにならなければ「もう死にたい」的に脅すとか。そんなんやって嫌われたら一貫の終わりじゃん。怖くてできませんでした。独り言はこんなこともなんでも書きますが、対人では「わたしがいうのもおこがましい」って抑えてしまってました。
 もしそんなこと言ったら、言った自分にも居たたまれなくなる。でも、言いたい時はもちろんあったんです。


 また何が言いたいのかわからなくなった。


 まあ、闇のないひとなんていないってことですか。
 「おまえのコメント長えんだよ。3行でまとめやがれ」みたいな趣旨、ニュアンスを受け取るお返事いただいてしまった。取り敢えずお返事もらえてうれしかったです。で、そりゃ無理な注文ですな。わたしがコメントする相手間違ってしまった事だけ認めようじゃありませんか。ってかんじです。某所ってここじゃないですよ。ここではずいぶんコメントしてないので。今までもそういう人いませんでした(断言)。お互い書く・読むこと好きですよね。


 でも、ほんとはとてもとても簡潔に言いたいこと的確に表現できるようになれたら、いいのになあ…とはわたしも思ってはいるんですよ。できないだけ。言いたいこと1行しか無かったらお相手にコメントわざわざ書かない方がなんか後悔しない気がするんだもん。そんなん「つぶやき」じゃん。でもそういうのがいい人もいるんですよね。読む分にはコピーライトとか好きなんでしょうかね。わたしはコラムとかレビューとか読むの好きですよ。好きなこと・ものについて熱く語っている文章とかも。

 そういうのも書くの好きとか苦手とかひとそれぞれだから、わたしと同じ熱量じゃなくても全然いいと思うので、できれば(コミュニケーション上で)あんまり相手に対する嫌味皮肉を「隠し要素のようにして」強烈に塗さないでほしかったりします。

 まあ、ネット上のことなので。わたしの受け取り方がまずかったかも。これって特異性とかわたしだけの特性じゃないですよね。ね。(独り言)
たわ・む【×撓む】の意味
..

出典:デジタル大辞泉(小学館)


[動マ五(四)]

1 他から力を加えられて弓なりに曲がる。しなう。「実の重みで枝が―・む」

.
2 飽きて疲れる。心がくじける。

「我が心は決して―・むことなし」〈鴎外訳・即興詩人〉


→撓 (しな) う[用法]

.
.
[動マ下二]「たわめる」の文語形。
1 弾力があって、折れずに柔らかに曲がる。たわむ。しなる。「本の重さで棚板が―・う」「よく―・うからだ」

.
2 従う。順応する。

「水に―・うて渡せや渡せ」〈平家・四〉

.
.
3 なよなよとする。

「うち―・ひ寄りてそ妹はたはれてありける」〈万・一七三八〉

.
.
[用法]しなう・[用法]たわむ――「撓」の字が共通して当てられるように、「枝がしなう(たわむ)ほど実がなっている」など、ゆるやかに弧を描く意では相通じて用いられる。◇「しなう」は弾力があって復元し易い状態をいい、「よくしなうからだ」「むちをしなわせて脅 (おど) かす」などと用いる。◇「たわむ」は重さや力に耐えられなくて曲がっている状態をいう。「本の重みで床がたわむ」また、「たわむことなく我が道を行く」のように、気力がおとろえるの意で使うことがある。この意は「しなう」にはない。

 まあやだおげふぃん。わらい。

 だって、ほんともういやでいやで頭に来る腹立つ胸糞わりいざけんじゃねえよ!ってことにいちばんぴったりな言葉なんですもの♪


 心の底から言いたいんだから所詮そういう品性なんですよわたし。そんなことで失うものはハッキリ言ってなくてもいい。

  言うぜつかうぜ!!!
 ブログや日記を書いたり、動画やイラスト・写真を投稿したり、とにかくNETを通して身近な人じゃなく、自分の正体?なんか全然知らない人に何か「自分の一部」を取り出して発信することは、癒しの効果があるんじゃないかなって、ずっと思ってきた。

 数字はシビア。カウンターが自分じゃ外せないサイトでは否が応でも「何回アクセスされたか、何回視聴されたか」が分かってしまう。結構自信作?だと思っていたのに全く(と言っていいほど)興味を持たれなかったんだーっ、て、ちょいガッカリってこともある。逆にただ出てくるものをそこに置いてみただけ、って時もあるから、それはなんともね。笑 置いてみないことには分からないよね。タイミングっていうのも大きいし。


 プロの作品は納得した物を対価を払って手に入れるのがわたしはいちばんスッキリするので、いつでも何気なく見に行くものは、言い方がアレだったら申し訳ないけど「素人感ありあり」のもののが面白いし興味深い。もちろん、すごく上手だったり感動したりして「対価を払いたい!」って思うものもあります。その著(演)者の「どういう思いが『そこ』にスポットを当てたくなったのか」が分かるものが好き。分かった気になっているだけで違うかもしれないけどね(爆)「受け取ったよ」って言いたいです。

 わたしも「受け取ってもらえた」ことで癒されてる。
 もう、どうしようもないほどに。

 今までの人生でほんとうに不幸だったことってあったのか、と考えても「いやー、なかったかな」って言っちゃえる。

 今までだって数え切れないくらい「幸せな人だね」と言われてきた。自分的にはどん底だった時も、厭味を込められた分も含めてね。

 それでわたしも「そうか、やっぱり幸せかもね」と納得してしまう。お手軽な人間なのかもしれない。言い換えればそういう資質に恵まれている。

 望みが叶うかどうかじゃなくて、望むこと自体が希望。


 やっと気が付いたことは、誰でも自分一人だけじゃ自分のことは気付けないってこと。今まで生きてきて、関わってくれた人達が少しずつ「わたし」を作ってくれた、彩ってくれたということ。

 まだまだどうしても感謝まではできないあれこれもある。だけど、出逢って、一瞬でも交差したことは「無かったことにしたいもの」なんてひとつもないよ。

 だから、今のわたしがあるんだよ。


 これからできるだけ「恩返し」的なことをしていきたいと思うのだけど、どうしたらいいのかははっきりとわからない。本当に返したいと願う本人はもうすでにいないこともある。

 わたしはせめて自分が生きているうちになにかひとつでもいいから。
 もういい加減この話題も終わらせたいけど、時間差で次々出てきてしまうのが不便。

 「コトが始まった時」から、その後の対策・自分がやるべきこと(できること)を、誰に言われなくても一瞬で把握してしまえる人だったら、さっさとやるべきことをやり終えて、スッキリして忘却の彼方なんだろう(経験は消えないから、嫌な気持ち・戸惑った思いを、ね)。

 わたしはなんて頭が悪くて不器用なんだろう。なんて遠回りな人生なんだろう。ちゃんと仕事をしていたつもりで、実際はまだ困っている事態に余計迷惑をかける側に居続けてることが切ない。

 人の顔色を伺わない、って聞こえはいいかもしれないけど、分かっててそうしてるのと天然なのじゃ全然違う。


 「お母さんはヘンなところがあるから」

 気を付けても、わたしの頭の中では一応統合が取れてる?ことでも、外側から見ればまだ「ヘン」なんだって。

 ヘンじゃなくせる自信がない。ヘンじゃなくなることに費やす残りの人生は短かすぎる気がしてしまう。

 「鉄の鎧」はいらないかもしれないけど、まだ隙だらけなんだなー。
 聞かせてください、と事前に申し入れれば、それはもう意識していいところを出してくるだろうし、あるいはことさら被害者意識をクローズアップするかもしれない。「見てほしいこと・見せてもいいこと」を相手が作ってしまう。

 そう、もちろんわたしだってそうなのだ。そんなの当たり前だと思う。


 でもね、わたしのこと石ころかなんかだとしか思ってない安心して油断してるあなたがやっていることをわたしは偶然見ているかもしれないんだよ。その逆もあり。次は意識して見てやるかもしれないんだよ?


 こんなことありふれ過ぎてネタにもならないのに、改めて言葉にすると非常に気持ち悪いですね! 誰か一人を…とか全く想定してないのに、そうしているみたいに聞こえる。
 「卑屈」と「傲慢」は紙一重。っていうかニンゲンの心の中の表裏一体なのだと実感してしまった。


 ほんとうの神様は「取引」なんてしないよね。
 年明けて平常運転もつかの間、これといった特定のできる事柄があるわけでもなく、それにしてもずっと微かな寂しさを覚えながら日々を過ごしている。
 特定の事柄は無くとも、何かにつけて同じ思いを抱いてしまうからだろうとは思う。これは幸せの最中にもある少しの不安とも違う。静かで一定の虚しさのようなものでもある。
 今はもう取り戻せないものや、どうやっても距離が縮まらないと分かっているものに対しての残念な気持ちからのさみしさである。
 どうして自分の手の届く範囲のもので満足していられないのか。または、遠くにある星を眺めるような気持ちで満足していられないのか。それともそこまで大それたことを望んでいるのが(自分が見えていなくて)自分で分からないのだろうか。


 いろいろ書き連ねてみても「そうなのかな」と思うだけで何の慰めにもなるわけでもないけれど。


 純粋で綺麗な真っ直ぐな気持ちを歌った歌は好きだし感動するけど、自分には似合わないし、そういう歌を歌う資格も無いように思える。ただ胸が痛くなる。だけどずっと弱さに縋ったままではいたくない。心に仕舞った苦しみや悲しみ、こんな気持ちを誰にも見せずに、人波に埋もれながら、どこにでもいるように何気ない風に生きていきたい。「何億分の一のわたし」なんてただの幻想だと強いて思おうとする。
 自分を「特別」と思うから、思ってほしいと欲を持つから外からそう思われず扱われずなことに絶望してしまうのだし、最初から取るに足りないものだ、居なくとも構わないのだと考えれば、大それた思いと現実の乖離に苦しまなくても済むかもしれない。地中の虫が勝手に煌めく星に存在さえも知られず憧れているだけ、と客観的に思っていられれば…。

 とにかく、今生でわたしが得ることができるものはもうきっと全て掌中にしていることだろうし、もうこれ以上のことは望んでも仕方ないことなのだという諦めが必要なのだろう。これからも決して星には届かないのだと。



 今の気持ちを書いたものではありますが、抽象的に暈かしてみました。ごちゃごちゃドロドロした細かい事実なんて文字にしてもわたしの主観ばかり入りまくりになって鬱陶しいだけと感じているので。



 そんな思いとはまた別腹で、14日に届く予定の米津さんのニューシングルを心待ちにしていたり、2年ぶりにまた「源氏物語」にハマっていろいろと資料を含め読み始めてみたりと趣味的なことは楽しんでいたりします。
 わたしの人生片想いばっかりだ。

 でももし両想いになれても、わたしはそれを上手に育てられない(かった)し、ずっと大事にして行こうという気持ちが続かなかったから、自業自得だとも、永遠の片想いをしているほうがある意味幸せなのかもしれないとさえ思う。

 知りたくないものを知らないでいる時間がそうさせてしまった。
 疲れたキツイわしんどいわーってことがあれば、手足全解放ーって心地良いお布団に沈み込んでいける瞬間もある。いつもどっちかだけでできていることはない。病んでしまわない程度の心身の負担があるから、それを癒す時間が快になる。

 眠れることは幸せ。眠る時間が摂れるのも幸せ。起きて活動している時間は「気持ちよく眠りたいから程良く疲れるため」的な考え方。次の日好きに時間が摂れるなら「もう1秒だって目を開けていられないくらいに泥のように疲れてみる」ことも厭わない。

 眠ることは生きていく上で欠かせない要素だけど、それ以上に眠ることが好きで、暇さえあればいくらでも眠っていたい。けど、そうは言っていられない生活をしているのが眠ってばかりいてだんだん嫌気が差して来たってことにならないため。睡眠も「欲」なので、程良く空腹時のほうが食事が美味しいのと一緒なのだ。


***


 23日深夜から、明けて閉店時間(5時)までひとカラでフリータイム。バリ楽しかった!!笑
 客観的に見ると、こういう行動している人を「はぁー?!」って自分でも思うけど、そういう気分の時もあるし、そういう気分になってそういう時間作れる状況なら別に本人の自由だよな、とも思える。諸々に支障が出なければそれで良し!みたいな。
 今回は喉の調子も意外と大丈夫だった。今はそこまで甚大なストレスに苛まれていないようで、ひとカラ6時間で最近の「なんか気持ちがさえない」が程良く解消できた感じ。喉の調子が悪くなくて、歌いたい曲がいっぱいある時期なのも楽しさの要素。

 今までも2~3人でフリータイム時間いっぱい歌いたい歌は尽きない、という感じだったけど、それをひとカラでもあっさりクリアしたのが自分でもなんか怖いと言うかキモい。意識したこと無かったけど、今自分が記憶していて再現できる歌っていったい何曲くらいあるんだろう?
 自分を幸せだと感じていることが分かると、わたしもそれは良かった、嬉しいことだと喜ばしく思う。そして、そう思える自分で良かったと思う。

 その逆(他人の不幸を願うとか、他人が幸せになることが快く思えない等)の感情を抱くことは、その余計な思いの分心身に負荷が掛かって、自分のことすらままならない現状をもっと悪くさせてしまう。損得で言えばだんぜん自分にとっても損になる。不利になる、とも言える。

 まあ知り合いとか大事な人じゃなく、とても遠い、名前くらいしか知らない存在だったら別にそこまで喜びはしないけどね。思い入れが違うし。

 それに、こちらの私事でもそれを一緒に喜んでくれる人(それを表明してくれる人)が、どちらかというとわたしは好きだな。


 ただ、自分を通り越して、自分と関係ないところでこれからどんどん活躍の場?が広がって行くんだな、と思うと、嬉しさの陰に一抹の寂しさも感じてしまうことは否めない。遠くに行っちゃう感、ていうのがね。相手がいれば少しは嫉妬するし。
 それでも、それを否定したり邪魔立てしたいとはならないけどね。自分の感情はちゃんと自分で処理できる人間になりたいし、そうでありたい。それはきっと「そんなの無理。できない」というほどのことじゃない。
 身体的精神的に雁字搦めに拘束される不自由は嫌だけど、まったくの自由に放り出されるのも怖いのです。特にわたしのようなAD/HD的ニンゲンは、枠内の制約があってこそやっとまともに呼吸をして生きていけるのです。ありのままに自然にしていたら危険がいっぱいのこの世界で命を落とさずにやってはいけない。本当の意味で自律して自立している大人にはこの歳になった今でも成れていない。肉親ではなくとも、もっと大きい意味での「親的」なものにいつでも拠り所を求めている。頭ではどれだけ自分で考えて答えを出そうとしていても、行動自体がいつだって伴わない。流れに乗っているつもりで、いつも止まったり振り返ったりしている。守りたいものはいつだって自分の周りの小さな小さな円の中にだけ。それよりも大きなものにいつだって守られていないと自分自身が自分の意志で生きて行くことができない。自分が何者であるか、生まれた時から大方のことはもう決まっていた。そこからはみ出しては生存できないとても小さくて弱い存在なのだ。心は自由だとしても、それは自分の今まで知りえた世界からの想像の中での小さな自由でしかない。ましてや行動なんて。

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