元々「ありがとう(ございます)」と言うことに抵抗はなかったほうだと思うけど、今の仕事するようになってから一日一体どれだけこの言葉をどれだけの人数に言ってきただろうか。などとシミジミ考えてみたりした。

 正直、言いたくないヤツだっていたけど、言ってなんぼなので今まで全員に平等に?言ってきました。大抵の人には本心から言ってるけどね。

 で、家族って意外とわたしに言ってくれません。わたしは気付いてもらえるまで何度でも自分から言うことにする。
 …って、そう言ってても忘れちゃうかもしれない(ありがとう、のほうじゃなくて、気づいてもらえるまで、のほうを)。


 それから、言わなくてもいい仕事(ってあるのか分からないけど)より、言うのが仕事って仕事に就けて良かった、とも思った。本心から。

 もっと「正しい(綺麗な)日本語」をいっぱい学びたくなる。
 このままさみしくないといい。



 「侘び・寂び」って、日本人以外にもこういう感じ方って持つのかな?
 今日も仕事入るまで2時間を切った。このくらいの時間帯に何か書きたくなる習性になってしまったのかな?


 少し前、一面田園風景の中に何故かポツンと建っているややクラシカルな出で立ちの百貨店の上のほうの階にある書店へ行く、という夢を見た。色は赤茶色掛かった一応カラーで、視界はいつもほんのりと暗い。
 わたしが書店へ行ったり本を読もうとする夢を見る時は必ず「お目当ての本」の内容を読みたいのに読めない。あったはずなのに見付からなかったり、頁を開けなかったり、とにかく中身が読めずにいつか目が覚める。すごくもどかしく残念な気持ちでいっぱいの夢である。

 今回は、その百貨店の中の書店にいた若い紳士の店員と年配の紳士の店員ふたりに、過剰過ぎるくらい親身に接客されるというなんだか不思議な夢だった。その甲斐も無く結局夢の中でのわたしのお目当ての本は見付からず、読めず仕舞いだったけど。

 何故いつも中身が読めないのか考えてみるに、いくら自分の夢の中だとしても、一度も読んだことのない不確定な話の筋までは、わたしの拙いアタマの中ではさすがに鮮明に創作することまではできない、ということと、わたしが「こういう内容の本(発禁レベル)など本当は読んではいけない、読みたいと思っている(読んだ)ことを誰にも知られたくない」とかなり強く恥ずかしく思っているからなのかもしれない。

 発禁レベルと言っても際どいエロとかグロとかじゃなく、もっとこう、人間の内部の、迂闊に覗いてはいけない深淵の部分を包み隠さず文章にしてしまったもの、というイメージで、それがまたわたしの想像の中だけでしか存在しない自分でも内容が分からない本で、それをどうにかして読みたいのだから中々始末に負えない。言ってみれば公開するべきではない日記か手紙のようなものを読みたがっているのじゃないかと思った。



 この話は何かの比喩じゃなく、本当にこういう夢を見たという話です。同じような「読みたいのに(外的要因で)読めない」という夢を今までも何度も何度も見ています。
 更新回数は多いけど、短文っていうか、文とも言えない1、2行でUPしてしまう傾向になってきてる。
 その後また書きたいことや言葉が出てくるとその都度追記、追記を繰り返したりもしてるんだけど、そういうやり方をしていると、UPされて時間を置かずにすぐ見に来てくれた方には申し訳ないな、と感じる。

 わたしの悪いところのひとつは、ちゃんと終末まで文章を書いて、じっくり推敲してからUPする、というのが苦手なこと。何かをきちんとした形にまとめてから発表するのが待てないこと。こういうことで他人を混乱?させていたらどうしようもないな、と。

 「書きたい欲」が、ひとつのちゃんとした形を作るまで我慢できない、過程でも目で見て追って、手を加えたり削ったりして、を繰り返したい。小さい書き込みスペースではよく解からないのがもどかしい。

 こう言う時だけはmixi日記みたいに、大きいスペースで全文を見れて「これで投稿してよろしいですか?」のワンクッションが入っているシステムが有難いなと思う。

 それでもこの読みづらい日記にいつもお付き合いくださいまして、感謝いたします。
 コップに水が半分くらい入っているとして「もう半分しかない」と思うか「まだ半分もある」と思うかで云々…という結構有名な話がある。それは心の持ちようの話なのかもしれないけど、わたしには「脳のクセ」のことだと感じる。

 わたしは「まだ…」と口では言い、そういう気持ちで行動を決めてきた。窮地に陥りそうになったこともあるし(落ちずに済んだのだけど)、用心(備えあれば憂いなし)を怠って土壇場で苦しむ羽目になることにかなり慣れている。慣れているって言ったってそれが平気、とは違うけどね…。

 何も手を加えず放っておくと、いつの間にか底にヒビが入っていて水漏れしていることさえ気が付かない。いつか水は尽きる時がくることを想定できないのだ。


 散々そういう繰り返しを経てある日「自分に手を加える」ことを始めた。それは敢えて「もう半分しか…」思考をすること。うつ状態で気力が衰えてしまってネガティヴ思考になっているわけではなく、今までの自分に足りなかった用心を自分の意思で始めたということ。脳のクセを捻じ伏せて…と言うほどでもないけど、ダメになっていく(かもしれない)今までの自分と逆のことをしてみてどうなるだろう、と思考錯誤している感じ。

 それは特に気持ち悪さを生まなかった。そして別に劇的に何かが変わることもない。衝動的で極端だった行動が「ほんの少し」緩和されたような気がするだけ。でもその「ほんの少し」がまったくの0であるよりも随分自分ではマシだと思える。それでいて、心の奥底では従来の「まだ…」思考が無くなってしまうこともない。

 「ふつうの人」って言うのも大雑把だけど、わたしのような傾向が見られないか少ない人は、いちいちこんなこと頭の中でこねくり回さなくても、自然に生活の中で覚えながらまあまあ適切に見積もって行動できているんだろうな。でも、わたしには無い別の苦労をしているかもしれない。日々のそれぞれの違う努力で世の中はなんとかうまく回っているんだと思った。わたしも「歯車」の一部なんだ。
 もしかすると、読んでいて嫌な気持ちになるかもしれないので注意しておきます。








 いわゆる下ネタには二種類あって、艶っぽい話と排泄的な意味で下半身に関する話だったりする。わたしが普通に話せることはどっちかというと後者の人間の(動物でもいいけど)尊厳?に関わるほう。
 家族間ではわりと普通に話すし、誰かがそういう話題を振ると「お母さんって、普段は全然人の話聞いてないくせにこういう時だけ大喜びで話に乗ってくるよね」と娘に批判?されるくらい喰い付きが良い。
 だからと言って、やはり時と場所と相手くらいは選ぶし、ものすごいタブーだと思っている人に対してはわたしも「そんな話、人前でするなんてとんでもないですよねー」って顔をして振舞うことくらいは当然のようにできる。いくら自分が面白いと思っても他の人が嫌がることはしないのが信条。

 だけど、確かに「お上品」な話ではないかもしれないけど別にそこまで「下品」なことでもないだろう、と。特に妊娠したり幼い子どもを育てたりしている上ではいちいち避けて通れないくらいには重要なことだとは思っている。それこそ日常茶飯事。あんまり鬼の首を取ったみたいに特別なことのように騒ぐ人はなんだかねぇ…って感じるよ。

 ちなみに食事時でも現物を見せられなければ、耳から入るそういう話は全然大丈夫。視覚から入る情報は聴覚から入るよりすごいダイレクトでインパクトだから。百聞は一見にしかずって言うしね。
 耳や鼻は自分で塞げばそれ以上のことはある程度避けられるけど、目の場合は一度でも見てしまったら、たとえ急いで目を閉じても間に合わない。っていうか焼きついてしまうので目を閉じると浮かんでくる…のがね。
 でも人間って結構すぐ忘れる。その事実は生きていく上でいろんなことが助けられているはず。
 そういった一抹の感情の動きに目を背けない。

 わたしの場合それは心だけの問題じゃなく、身体の不調や不具合とセットになってそういう感情が浮上してくることが多い、と、経験上分かった。

 例えばどうにもどん底っぽい気分に翻弄されている時、ゆっくり好きな入浴剤を入れてお風呂に入って、髪や身体をとことん清潔にしてさっぱりして温まって、乾いた清潔なタオルに包まれてその髪や身体がさらさらとしてくる頃には感情のほうも収まりがついていたりする。

 自分で好きなカップやグラスを用意して好きな飲み物を作って、冬は熱いうちに、夏は冷たいうちに喉を潤すこととかも効果があった。

 そして薬も。どうしようもないほど気持ちがしんどい時は頓服は確かに効いてくれる。

 昔と違って今はなかなか寝逃げはできないけど(そしてそのほうがわたしには望ましい)、特別なことはしなくても身体が心地良いことを探してみて、それは案外単純で簡単なことだったりした。わたしにとっては心と身体はどうしても連動している。


 さみしいとかかなしいとか、そういう「受け身」的な感情じゃないけどもやもやする時は、怒る。不当なことに対してわたしは今ちゃんとしっかり怒りを感じているんだ、と自覚することも大事かもしれない。わたしがわたしの頭にくることに対して怒るのは何も悪いことじゃないし、それで他人を攻撃したり危害を加えなければいいだけのこと。
 怒ってもいい時にちゃんと怒れば、もやもや気分で不快感→疲れて体調悪くなる→なんかつらい・さみしいループに頻繁に陥らなくて済むように思う。

 そう言えば「怒る」って、昔は意識せずともできていたのに最近は頭で考えないと難しくなったことのひとつ。
 あなた(達)の行動が。わたしも同じことしてきたし、今も時々することがある。だから、わかる。

 それは、わたしと同じ感情やその対処法から導かれたことではないかもしれないけど、それでもそういう行動を取ってしまうことを選ぶことは、わかる。

 簡単で、それでいて結構インパクトがあったりするよね。

 今は、そうすることで何かを守りたいんだよね。ちっとも悪いことではないと思うよ。
 いつも、行きはゆっくりで時間が長く感じて、帰りのほうが早く短かった。同じ者がいつも同じ道同じ距離を走っているのに。
 夜中に聴く音楽は昼間よりもほんの少しだけテンポが速くなった。同じ者がいつも同じスピーカーで同じ曲を聴いているのに。

 これは本当に時間帯によって空気の抵抗とか振動とか…難しいことは解からないけれど人の感覚に違いが出てくる現象というものがあると誰かに証明されていることなのだろうか? それともわたしだけにある独特の感じ方なのだろうか?

 ……なんてことを考えていた。そして「折り返し地点」は何処なのだろう?

 今、わたしが時間が経つのって早いなと感じているのは、もう折り返し地点を通過してしまったからなのかな。上りと下りで言えば、あとはもう静かに下降していくだけの残された時間、かな。


 子どもの頃、退屈だったり嫌なことが待っている時間は長かった。楽しいことがあったり心地良い時間はあっと言う間に過ぎて行った。楽しいことが済んでしまうとやっぱり残念な気分や寂しさを憶えたものだ。だけど今のわたしは楽しいことを楽しんで、その時間が済んでしまった後にはそのことにホッとしたりもする。
 人の人生(生きざま)を「作品」と同じだとは思えない。人の生き方に対して批評をしたりすることなんて許されるのだろうか? 他人が人の生活に関して「傑作だ・平凡だ・駄作だ」なんて言うことが正しいのだろうか? 何様ですか?


 少なくともまだ生きているうちに言われたくない。
 アタマ(ココロ?)が蛍光灯なのか、数年前のことに今頃思い出し怒りが沸き起こってきている。
 言葉では散々良いこと言っておいて結局結果はこれかよ!みたいな、もうある程度好意を持って信頼もし掛けていた矢先に今思えば相当人間味のない酷い仕打ちをされたんだなぁと、思考が当時より多少マトモになってから振り返ってみて当時には気付けなかったことに気付けたからと言うか…。

 こういうことは昔からいつもあった。被害者意識で言わせてもらえば「弱っているところを付け込まれた」ってこと。でも、マトモに考えることさえできていたら普通は騙されたりしないだろうよ、ってことなのだから、いとも簡単に言葉を信じてしまったわたしは自分はどこか知的にも障害があるんじゃないかとすら思ってしまう。


 なんだろう…。わたしの中にも「騙されてもいい相手」(それはできれば騙さないでほしいけど)と「騙されて屈辱に感じる相手」がいて、思い出し怒りの原因は後者でしかないので余計に自分のバカさに嫌気が差してくる。相手も同じ程度にはバカなんだろうね。だって、結局後になってわたしに気付かれてしまう程度なのだから。


 今書いていることは全部わたしの被害妄想だと言い捨てられれば、それはそうかもしれないとも思える。相手に悪意があったかどうかと言われれば、わたしと同程度にはバカなので悪意なんて欠片も無かっただろうことも分かる。分かるから余計に悪しざまに言いたくなってしまうのだ。

 他の面(良い部分)は置いておいて、嫌に感じた面だけを(一方向からだけで)思い出しているのでどうしようもない話になってしまうけど、総合的に見ても決して悪人ではないことだけは確か。

 燻りそうだったけどこうやって言葉にして放出してやったのでわたしとしては気持ちはだいぶラクになってきた。


 「人間って弱いな」と言って、だからって分かっているなら少しでも弱い部分を強さに変えて行く気概が無ければ次に進めない。
 なんか、今はどこに行ってもどこに居ても一抹のさみしさを感じる。リアルとはまた違うさみしさ。今リアルでは感じないさみしさ。話し掛けたいけど躊躇してしまうもどかしさ。趣味友がいなくなってしまったからかな。以前、音ゲーやアプリに狂っていた頃はすごくネットに親和性があったし、むしろリアルでのさみしさを埋め合わせることができていたのに…。だけど、それは「わたしにとって正しい」やり方ではなかった。

 周りがいきなりガラッと変わったわけではなく、すべて自分が変わってきてしまったせいなのだろうけど、なんだか不思議なものだね。だんだんと今、ここで、顔を見合わせている人、との会話のほうがラクにできるようになってきている(できない人もいるけど)。たとえお互い相手を気にいらない同士だとしても、同じ目的のためならその場では自分を少しだけ抑えて協力し合う、ということもおぼえた。

 ネットの世界では、人は人の間を簡単に通り過ぎて行く。極端な話、受け入れたくない人がいたら「いなかったこと」にしてしまうことだって可能だものね。
 わたしの幸せをずらずらと羅列しようと思ったんじゃなくて…。「幸せだ」と感じられるようになる何かの契機、っていうんでしょうか、またいつものただの勝手な思い付きだから証明してみろとか言われても困るんですが、自分で思い当たることひとつは「100か0か思考」を止めてみようとしたことのような気がした。

 「たったこれだけなら全部いらない!」と言うのは、言えばスッキリするし、なんか潔くてカッコいいようにも感じるけど、それが必死のやせ我慢からだったらいつまでも囚われから抜け出せないことになる。
 上手く言えないけど、これからもできるだけ細くても長く平安に生きて行くとするなら、100じゃなくても30とか60とかでも自分と周り(自分自身とも)との現実的に妥当な落とし所を見付けてそこで協力し合って不毛な勝負をしないことが大事なんじゃないかと思う。いつもいつも敵を作りだしては「死ぬか生きるか」という状態で生きて行くのは長く続けば続くほど身体にも心にも健康に悪いことばかり。血管がね、ずーっとギュッって収縮したまんまになるんだよ。奥歯が知らないうちに擦り減ってたりする。

 だから、そういうことを止められればすごくラクになるし、ラクになれたらまずそれがひとつ「幸せ」だと感じられることにもなる。

 持って生まれた性質や育ち方とかで「100/0思考」から抜け出すことが難しい場合もあるけど…他の人が代わりに自分を生きてくれるんじゃない、自分が自分を生きるんだからね。
 それも割と都市部に生まれ住んでいると、まあ今住んでいるのは衛星都市レベルのところだけど、わたしの必要な便利さ(移動がラク、選択肢が多い、時間を問わず買い物できる、自治会は機能しているが特にプライバシーには立ち入られない、言葉が普通に通じる、だいたいの人は粗野ではないetc)に慣れてしまって、もう今になって他の土地(外国とか日本で言えば都市ではない地方)には住めないな、と単純に思ってしまう。そう思うのはそれ以外の環境で生きてきたことが無いからだろうけど。嫌いというわけではなく、住むのと旅行とでは違うからだ。

 わたしは元々「今自分がいる場所」が好きなほうで、例えばだけど、せっかく東京(大きく言えば日本)に住んでいながら東京(日本)が嫌いで東京(日本)の悪口ばかり言う人にはお前にはもったいないから住んでもらいたくない、とさえ思う。よその土地へ来て、その土地の人にその土地の悪口を言うなんて最低だ。


 さて、これから便利さの極み?的職場へ出勤である。便利なのにもいろいろワケがあり、自然発生して勝手に便利になったのではないのである。
 つくづく思うのは「ケンカできる能力」かなり低下しちゃったな、と。ケンカできる相手すらいない(苦笑)。現実に目の前にいる相手に腹を立てることも本当に少なくなった(もちろん皆無ではないけどね)。

 あと、ケンカしてまでこちらの気持ちや意見を訴えることに時間を掛けるのを「選びたくなくなった」。
 大事な人達はわたしにケンカを吹っ掛けてこなくなったし(元々しない人も含めて)、そうじゃない人には時間と労力を掛けてまで嫌な気持ちになりたくないし、別にその人に勝っても仕方ないし、でももし負けたらめちゃくちゃ悔しいから(笑)余計なことしたくない。

 今までの自分のしてきたケンカの原因や内容がなんとコドモっぽくて衝動的で幼稚なことであったか…。でも下手くそなストレス解消になってたのかも。って言うか、相手も「オトナ」だと多分ケンカにならないんだよね。

 では、ケンカ(対等)じゃなくて、こちらの一方的な怒りをぶつけることは? と言うと、これも特に現実に目の前にする相手には今のところあんまり怒りを感じなくなってきているかなぁ。娘達もオトナになったし。まあわたしはまだぶつけられたりする時もあるけど、よっぽど「触れられたくないツボ」を刺激されているのでなければやっぱりケンカにまでは発展しなくなった。
 これは歳とって性格が丸くなったというより身体的なエネルギーレベルが低くなったというのが多分正解だろうね。だからどうでもいいことに体力や精神力を使うことにケチになってしまったのだ笑。

 と、いうことは、歳とってもまだケンカ上等、相手を思い通りにさせてやる!的な行動が日常的にできる人っていうのは、かなりエネルギーレベルを高く保つことができているという「強み」を持っているんだと思う。わたしから見たらすごく羨ましい。その資質を社会的に役立つほうへと向けた活動ができればどれだけ素晴らしいことか……。
 わたしは亡き両親について、最後の最後(19歳から22歳)で「自分はちゃんと愛されていた、大事にされていた、わたしというひとりの子どもの気持ちを尊重してくれていた(そういう人達だった)」という実感が得られたので、昔々にあったいろいろ辛い思い出や気持ちを解かってくれないと感じていたことの上書きができて、基本的に「幸せな思い出」が今でも主流で残っている。この思い出はもうこれ以上絶対に上書きされないこともある意味幸いなのだろう。

 記憶はかなり自分の主観によって事実が塗り替えられてしまうんだということもなんとなく肌身で分かる。それから自分が親になって「子ども」という存在と長年関わってきたから知ったことも大きいかも。「幸せな思い出」に変わる切っ掛けも長女を妊娠したことから始まっているので。

 「わたしが生んだ子ども」の存在を認めて心から可愛がってくれるということが、自分では憶えていないその時期の、自分が生まれた時の追体験をしているようだった。わたしも心から嬉しく安心を覚えた。

 本当はわたしの子どもがもっと大きくなって、いろんなことができるようになって、せめておじいちゃんおばあちゃんに自筆でお手紙を書けるくらいになるまでは生きていてもらいたかったのだけど、そしてただずっと養ってもらって世話を掛けていただけじゃなくなったわたしになって、また新たな大人同士としての関係も築いていきたかったけど、それが叶うことがなかったのが残念に思う。

 だけど、最後に心に刻みついた両親への記憶は「立派じゃなくても人としてちゃんと生きて行こう」と思える原動力になった。今「わたしを生んでくれて、育ててくれてありがとう。わたしはいつも幸せです」と彼岸の両親に伝えたい。
 わたしは死ぬ(直)前にこのブログを削除したい、と思っている。まあ絶対に遺族がここを読まないと決まっているならこのまま残しておきたい気持ちもあるのだが、もし自分が遺族側になった場合で考えると、PCのお気に入りに「本人の日記」などが残っていたらいつか絶対に一度は紐解いてみたくなるに決まっているから、読まれたくなければ消去しかない。

 ただ死ぬ前に消去したいというのは変わらないが、死ぬ死ぬ詐欺じゃないけど、死ぬと宣告されていて(自分でもすっかりその気になって)その後運よくやっぱり生き還ってしまったとしたら、消したことを酷く後悔してしまうとも思う。それに突然死だってあるかもしれないし、なかなか自分の理想通りにはいかないであろうと想像できる。
 必ず消去を遂行してから死ななければ!と思い詰めれば、まだ頭も身体も動かせるうちに自分で期限を区切って事前に消去するしかない。ただ「遺族に読まれたくない」というだけで、本音としては消してしまいたくはないのである。

 そんなことでざっと考えて「PCにURLとか痕跡を残さないようにすればいいのだ」と思い付いた。なんだそれだけのことなのか。
 いちばん(都合が)いいのは、ひとつ記事を書くごとにデータを移してここDNには本文を残さないようにすることか。ただこれも何のために全公開ブログを書いているのか判らなくなるよね。ならば全文をひみつ日記にしたらパスワードが分からない限り読めないよね、と考えたが、それじゃあ自分が楽しくないのだ。


 もう何言ってるのか何が言いたいのかよく分からない(爆)


 ちなみに、こんなことが気になるのはWEB上のことだけで、日常生活の中で形に残るようにわたしが取っておいたものは何を見られても読まれても構わない所存。形見にでもしてもらえれば幸いである。


 なんだか自分でも最近「死ぬ前に」とか「死んだら」みたいな話が多いなと苦笑。死ぬ死ぬ言う奴ほどなかなか死なない、という現象を逆手にとって? 定期的にifで死ぬ話をすることはまだ当分死なないで済みそうな気がするのだ。わたしはできればまだ死にたくない。
 文章で読むと壮絶な日々。それに共感、ではないけど同調?してしまってわたしの中にもその苦しさが入り込み、しんどいな、しんどいだろうなぁと自分の感覚レベルでの苦しさを想像して胸が塞がってしまう。こんなこと全く余計なお世話だろうし、わたしに同調されても有難迷惑もいいところだろう。解かっているけど……。
 こういう状態ってなんか知ってる。誰かになんとかしてもらえるのならそんなにラクなことはないし、そうしてもらえたら救われるような気がするのだけれど、でもそれは自分でなんとかしなければいけないことで、自分で乗り越えられて初めて救われることで。誰にも解かってもらえない、じゃなくてどうしたって自分以外は解かりようがないということが底の底で解かってる。それはすごく寂しいけど、それは自分だけじゃなくて誰もがそうなのかもしれないと思ってみたり。

 そうして苦しくなるのも自分が好きで引き寄せたことで、たとえば簡単な解決方法があったとしてもそれを受け入れたくない自分があって、好き好んで苦しい世界へ挑もうとしてしまったり。「解かるよ」なんて言えない。でも解かりたい。なにもかもを億劫がるわたしの中にどうしてそんな情熱だけは生まれるのだろう。
 玄関のドア越しに『みーやん』がみゃーみゃー鳴いているのが聞こえたから、ドアを開けて外に出た。

 「よく来たねえ」としゃがんで頭を撫でたら右の頬をぺろん、と舐められた! 家の猫でさえめったにそんなことしてくれないのに、どんだけ懐っこい子なの!(笑)かなり感激。

 みーやんは元飼い猫だったのかな。もしかして今も飼い主がいるんじゃないだろうか、とも考える。野良猫だったらここまで人間を警戒しないでいることはみーやんにとってリスクにならないだろうか。

 だけど時々よそよそしくなる日もあって、そんな時は「おいで」と言っても近付いてこない。「ちゃんと飼ってくれるわけでもないのに気まぐれで可愛がったりしないで!」と抗議をされているような気持ちになる。それはわたしの中の罪悪感がそう思わせているのだろう。

 今まで家の周りでは何匹もの猫達がいつの間にか現れて、しばらくの間居ついてはいつの間にかいなくなっていった。初めて新しい猫に会う時は大抵子猫か若猫の時代だ。大人になるとどこかへ行ってしまう。
 そうやって別れていった歴代の猫達の姿形を思い出す。勝手に名前まで付けていた。白猫の『もち(いつも玄関先でもっちり座っていたから)』、茶猫の兄弟『チビーズ兄者と弟者』、黒猫の『クロ(そのまんま笑)』、白黒ハチワレで前歯の無かった『ハチ』……。今頃どうしているだろうか。


 すごい勝手な話だけど、わたしは町に野良猫が一匹もいないような社会になるのはなんか嫌だ。そういうのはなんか違うと感じてしまう。「不幸な猫」は増やしたくないのだけど、野良猫や町の猫だって、生きていればそれなりに幸せを感じたりすることだってあるんじゃないだろうか。
 猫を擬人化して自己投影しても仕方ないのは分かっているけど……。

 猫がもし「不幸」になるんだとしたら、それは全部ニンゲンがそうしているのに他ならないのだから。
 単刀直入に言って、「わたしは偽善者か?」をYESかNOかどっちかで答えなくちゃならないなら「YES」としか言いようがない。

 善く思われたい欲が強いです。煩悩です。でも、いくら自分でそう思っても行動しても結局別に善く思われていないから試みはいつも失敗、っていうところかな。そこは上手くできている。わたしみたいな者が調子に乗ることは許されない。それでいいんだと思う。こうやって先回りのように書いてしまうのも、最初に他人から言われるより自分が言ってしまったほうが謙虚な感じになるし、否定されることから回避しているから。ずるいですね。「ずるいですね」も同じような意図があって書いています。本当にずるいですね。
 と、いくらこういった言葉を重ねてもなにもいいことはない。却って疚しさのカタマリということも露呈しますね。

 今分かっていることは「自分に無いもの」を無理して取ってつけた行動はやっぱり変、ということ。そういうのは相手にも分かってしまうだろう。偽善なのかもしれないけど、自分の中にあるもの(嘘じゃない「善」の気持ち)だけ総動員すれば、それは分かってもらえる気がする。やっぱり甘いかな。

 まとまらないまとまらない。もう誰かやっつけてください。

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