2002年もカウントダウン…の頃に某成人発達障害系BBSで、自分がその時点での理解(無理解?)・感覚・思考を何とか表現しようと書いたレスがある。自分が書きこんだ言葉を読み返すのがずっと怖かった。あれから約1年半が過ぎ、今やっともう一度読み返してみようと思えるようになった。

あの時は発言を重ねるたび(最初からかもしれないけれど)、参加者と意思の疎通が出来なくなって自ら(初めて)謝罪して去っていったことから、正視すること無く遠ざけていたので、今でもその時の考え自体がいいのか悪いのかは解からない(誰もそのことに言及はしていなかった。謝罪はまともに相手にされずに浮いていたと感じた。どうしてもそう感じてしまうのです)。

その時、正直もうこれ以上誰かの辛辣な人格否定(嘲笑含む)に傷付きたくなかった。この人は賢くて強い、と感じた誰かの人格(言葉まで)を借りて、生身の自分を曝け出さずに『強い自分・酷いことも言ってしまえる=人を傷付けられる自分』というものを持って、他人に『そういう自分』として認識してもらおうと考えてしまったのだ、と思う。その後結局『受ける衝撃に裏も表も無い――それは相手だって同じだと初めて思えた衝撃』に――自分の浅薄さ、押し付けがましさに自分で苦痛になってしまった。自分は結局「傷付けられた。悲しい。悔しい」と思ってしまう弱さを前面に出してしまうような人間であると認めざるを得なくなったことで(今はそれでも別にいいじゃん、と思う)。『自分で作っていた外側のひとである自分の崩壊』がショックだった。いい歳して。そんなことを意識してやったのは初めてだった。後悔している。汚点だと思う。(勝手な言い草を承知で簡単に言えば、自分は(自分なりに)どんなに頭使って気遣って防禦したつもりでも、やっぱり素の自分が曝け出て、その自分はいつか嫌われる・必ずと言ってよいほど受け入れられない、という(妄想)経験のNET版だった)

わたしも軽度発達障害を持ち、適切な療育を受けず(ってゆか、存在自体が認められてなかった時代に生まれたのだ。誰も悪者はいない。悔しいけど)に、しかも、自我(自発的な我儘・意志)を通す、というのとは別の逃げの甘やかしを受けて育ってきているので、先天的なのか、後天的なのか自分でも考えるのがイヤになるくらい、新しい対人関係に入っていく事が不得手。入っていくこと自体は、それを望む自分がいるので決して嫌なことではないけれど、維持していく努力がどうしてもずれていく感じ(特に努力していない、と言われればそうなんだろうな、と自分でも思う。していたときもずれていくのは後で判った)。それぞれ月日が経つにつれ、纏まって友好が深まっていく者達をいつも外側で眺めて、そこで終わる自分。それが『対人関係におけるあなたの実力だから…』と言われれば逆らう言葉は…思いつくけどそのように納得はしてしまう。それまで、と…。

*

同じ障害を持つ者同士でも、BBS上だけでもわたしは馴染めなかった。よく言う「居場所が出来た」感じがどうしても持てない。現在の状態像や経験、置かれている立場、環境でこんなに違ってしまうものか、という気持ちを深めるだけだったりする。だいたい、障害がネックになっているだけで、自分以外の殆どの人達はわりと優秀な頭脳と適切な表現力と活動の実績を持たれている、と思える。だからそうじゃない理解の低い自分は同じ障害を持つ人たちにすら受け入れてもらえないと思うし、相手にする価値もないと思われているんだと思う。ある目立った人だけを見て想像しているだけなのかもしれないけど(わたしが興味を引くのはどうしても自分に無いものを鮮やかに見せてくれるひと。他の人だってそうなのだろう)。目立ってる人、というのはその人が才能の上に努力・研鑚を重ねて積み上げた実績だ、というのは解かる。自分が今までそう生きてこなかったことも解かる。努力の場を得られなかったひとも陰に声を上げずにたくさん存在しているのだろうか?と考えてみたりもする。わたしは見ず知らずのそういうひとたちと仲間でいる、という安心感も持てない。だって、見たことも会ったことも無いのだから。会いたい、という気持ちもものすごく大きくは持てない。

ものすごく簡単に言うと、これは全部「僻み」という言葉で集約されてしまうことも解かっていつつダラダラわけわか書きをしてしまうのでした。

*

その『自分の書いた言葉』を晒そうとしたら、そうすると引用した相手方の言葉のこともあるし、上手い具合に自分の言葉で纏める能力がないし、それに文字数制限を越えることになってしまうことが判ったところで却下。理解していないのに理解したつもりになって書いた、というだけのことだと思うのですが…。

*

↑はあくまでも自分の全部ではなく“一部分”なのだと思おうとしています。理解力・実行能力における(それだけじゃないかもしれない)劣等感なのですね。部分的に見ても、量で言えば小さいけど他に比べて“濃い”のだとはどうしても感じます。意識してしまうとどうしようもなく書いてみたくなるのですが、書いたものを見ると結構虚しくなりますね。中学生でももっと理路整然と書けるだろうに…と溜息。って、感じ入るところがやっぱり違ってますか。多分、優劣付けたり比べたりしないで自分なりに一生懸命やっていけば良いじゃないか、という結論が好感度、なのも解かりますが、そういうことが言いたくて書いているんでもなかったりして…。確かに頑張っていることが持続できて報われている(報われずとも、それで自分が豊かになった、と思えることも含めて)人には好感なんでしょうけど…。わたしもそう思いますけど。その前段階にすらいないひとには何て言ってあげたらいいのか(あげたら、って言い方もなんか厭ですね)、人の身になって、なんて、自分でも遠くて預かり知れないのです。って、そういうことを言いたいんでもないんだけど……。わたしの言葉の限界かな。

もう一度学校(というかちゃんとした教科の授業)に行き直したい、というのは真面目な話だったりします。後になって気付いても遅い…とは思わないけど、やっぱり損してしまった!という気持ちはどうしても持っちゃいます。失敗しても、その場で正して行けたことが少ない、自分で考えても報われない、ダメなことは指摘されても「じゃあ、どうすれば良かったか?」という(その時だけでも的を得た)提案を戴けずに過ごしてしまった時間とか。やっぱりわたしは「フツーに通じない」子だったんだ。残念&損だと思う。楽しかったこともそれなりにありますけど…。そんなことを考えなくてもいい、懐の広い世界、というのもまだあると思う。思いたい。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索