重いようで軽い

2004年5月6日 日常
昨日は随分と饒舌にああでもこうでも、と他人の批判を書いてしまいました。わたしって本来かなり粘着質かもしれない。だからって、自分の願望を遂げるまでポジティヴにアクティヴに行動に移す能動的なタイプという訳でも無く、心の中だけで靄靄しているだけの薄ら暗い、煮え切らないものが渦巻いている、という程でも無い、言葉に変換して、気持ちを表現することに成功すれば、それはそれで一応の納得をしてしまい、彼方に追いやることが初めて出来る、という方法に頼っているみたいだ、と思う。追いやれない時は言葉にどこか嘘がある時。厭な文章だな、偉そうで傲慢だな、そういう自分はどうなんだよ?と自分に対して思うこともある。それはお優しくて、お心が広くて、ひとの悪口なんぞ言わない自分、という有り得ない理想から掛け離れている自分を知る痛みでもある。嘘を吐くより痛みを引き受ける(というか、諦めざるを得ないから渋々認める)方が多分気持ちが軽くなる、という秤に掛けた利己的な選択だったりするのですが。いちいちややこしくて、時に自分でも辟易してしまう。竹を割ったようにスパッとした性格、流れる水のようにサラっとした雰囲気に憧れるけど、自分の資質から程遠いことを自覚して(させられて)、自分に無いものは自然に湧き出ては来ない、ことを知る。自分の中の好きでもあり、嫌いでもある自分とどうやって折り合いをつけて行こうか、まだ答えは見付からない。悪い、と思われる部分を全部無くしたい訳でもないのもまた難しい。

*

自閉的、と言っても、わたしの場合はひきこもりとか(たまに短期間ひきこもりますが)自分以外に関心がない、と言うわけじゃなく、脳みその機能的な部分が(機能しない部分があるのか、と突っ込まれても困るけど(苦笑))独特に自閉している(それで特に困るわけじゃない)ので、自分で納得出来ていれば、それはそれで自分的には幸せだったりするのです。世の中に入れないところがあるから不幸せ、じゃなくて、入った先で不幸せ、というのもある。自分なりのバランスがある。簡単な世間語で表すと『我儘』という言い方も出来る。自分の中では似ているけど違うのですけどね。

*

親がもういない、ということに悲しみ以外の何かしら安堵感、というものを最近は新しく覚えてしまった。ようよう15年掛かった。まだ20代〜30代前半ではそんな気持ちは抱かなかったことを思えば、やっぱり自分も確実に老化の道を進んでいる感じがする。ASはともかく、ADDのある自分には「老化して頭も身体も弱った肉親の世話(しかも自分より年上)」がスムースに出来るような気が全然しないから、というのも大きい(健常の人だって大変なことでしょう)。側にいて、困ったことだけを助けてもらう、という訳にもいかないのだろうから……。こういう世界(老人介護?)も白黒はっきり別けられない何か、が渦巻いているように思う。わたしが22まで生きて、親としてコドモのわたしを養い、面倒を見てくれた、という事実で上等なんじゃないかと今は思う。もっと幼い頃別れた、というとまた大分違うんだろうけど。

*

なんで最近こんなことばかり考えて書き込んでいるのかねえ……。みんな立派で、わたしはどうやっても太刀打ち出来ない、認められない(認められなくても生存の保証があればその限りでもないのに)ことへの恐怖、それに自分に対する苛立ちも少しある。一生懸命やればいいってもんじゃない、ことを外に出ると痛感してしまうから。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年6月  >>
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293012345

お気に入り日記の更新

この日記について

日記内を検索