わたしは亡き両親について、最後の最後(19歳から22歳)で「自分はちゃんと愛されていた、大事にされていた、わたしというひとりの子どもの気持ちを尊重してくれていた(そういう人達だった)」という実感が得られたので、昔々にあったいろいろ辛い思い出や気持ちを解かってくれないと感じていたことの上書きができて、基本的に「幸せな思い出」が今でも主流で残っている。この思い出はもうこれ以上絶対に上書きされないこともある意味幸いなのだろう。

 記憶はかなり自分の主観によって事実が塗り替えられてしまうんだということもなんとなく肌身で分かる。それから自分が親になって「子ども」という存在と長年関わってきたから知ったことも大きいかも。「幸せな思い出」に変わる切っ掛けも長女を妊娠したことから始まっているので。

 「わたしが生んだ子ども」の存在を認めて心から可愛がってくれるということが、自分では憶えていないその時期の、自分が生まれた時の追体験をしているようだった。わたしも心から嬉しく安心を覚えた。

 本当はわたしの子どもがもっと大きくなって、いろんなことができるようになって、せめておじいちゃんおばあちゃんに自筆でお手紙を書けるくらいになるまでは生きていてもらいたかったのだけど、そしてただずっと養ってもらって世話を掛けていただけじゃなくなったわたしになって、また新たな大人同士としての関係も築いていきたかったけど、それが叶うことがなかったのが残念に思う。

 だけど、最後に心に刻みついた両親への記憶は「立派じゃなくても人としてちゃんと生きて行こう」と思える原動力になった。今「わたしを生んでくれて、育ててくれてありがとう。わたしはいつも幸せです」と彼岸の両親に伝えたい。

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