やはりさみしさ
2015年1月11日 言葉と感情と思考・嗜好・志向 年明けて平常運転もつかの間、これといった特定のできる事柄があるわけでもなく、それにしてもずっと微かな寂しさを覚えながら日々を過ごしている。
特定の事柄は無くとも、何かにつけて同じ思いを抱いてしまうからだろうとは思う。これは幸せの最中にもある少しの不安とも違う。静かで一定の虚しさのようなものでもある。
今はもう取り戻せないものや、どうやっても距離が縮まらないと分かっているものに対しての残念な気持ちからのさみしさである。
どうして自分の手の届く範囲のもので満足していられないのか。または、遠くにある星を眺めるような気持ちで満足していられないのか。それともそこまで大それたことを望んでいるのが(自分が見えていなくて)自分で分からないのだろうか。
いろいろ書き連ねてみても「そうなのかな」と思うだけで何の慰めにもなるわけでもないけれど。
純粋で綺麗な真っ直ぐな気持ちを歌った歌は好きだし感動するけど、自分には似合わないし、そういう歌を歌う資格も無いように思える。ただ胸が痛くなる。だけどずっと弱さに縋ったままではいたくない。心に仕舞った苦しみや悲しみ、こんな気持ちを誰にも見せずに、人波に埋もれながら、どこにでもいるように何気ない風に生きていきたい。「何億分の一のわたし」なんてただの幻想だと強いて思おうとする。
自分を「特別」と思うから、思ってほしいと欲を持つから外からそう思われず扱われずなことに絶望してしまうのだし、最初から取るに足りないものだ、居なくとも構わないのだと考えれば、大それた思いと現実の乖離に苦しまなくても済むかもしれない。地中の虫が勝手に煌めく星に存在さえも知られず憧れているだけ、と客観的に思っていられれば…。
とにかく、今生でわたしが得ることができるものはもうきっと全て掌中にしていることだろうし、もうこれ以上のことは望んでも仕方ないことなのだという諦めが必要なのだろう。これからも決して星には届かないのだと。
今の気持ちを書いたものではありますが、抽象的に暈かしてみました。ごちゃごちゃドロドロした細かい事実なんて文字にしてもわたしの主観ばかり入りまくりになって鬱陶しいだけと感じているので。
そんな思いとはまた別腹で、14日に届く予定の米津さんのニューシングルを心待ちにしていたり、2年ぶりにまた「源氏物語」にハマっていろいろと資料を含め読み始めてみたりと趣味的なことは楽しんでいたりします。
特定の事柄は無くとも、何かにつけて同じ思いを抱いてしまうからだろうとは思う。これは幸せの最中にもある少しの不安とも違う。静かで一定の虚しさのようなものでもある。
今はもう取り戻せないものや、どうやっても距離が縮まらないと分かっているものに対しての残念な気持ちからのさみしさである。
どうして自分の手の届く範囲のもので満足していられないのか。または、遠くにある星を眺めるような気持ちで満足していられないのか。それともそこまで大それたことを望んでいるのが(自分が見えていなくて)自分で分からないのだろうか。
いろいろ書き連ねてみても「そうなのかな」と思うだけで何の慰めにもなるわけでもないけれど。
純粋で綺麗な真っ直ぐな気持ちを歌った歌は好きだし感動するけど、自分には似合わないし、そういう歌を歌う資格も無いように思える。ただ胸が痛くなる。だけどずっと弱さに縋ったままではいたくない。心に仕舞った苦しみや悲しみ、こんな気持ちを誰にも見せずに、人波に埋もれながら、どこにでもいるように何気ない風に生きていきたい。「何億分の一のわたし」なんてただの幻想だと強いて思おうとする。
自分を「特別」と思うから、思ってほしいと欲を持つから外からそう思われず扱われずなことに絶望してしまうのだし、最初から取るに足りないものだ、居なくとも構わないのだと考えれば、大それた思いと現実の乖離に苦しまなくても済むかもしれない。地中の虫が勝手に煌めく星に存在さえも知られず憧れているだけ、と客観的に思っていられれば…。
とにかく、今生でわたしが得ることができるものはもうきっと全て掌中にしていることだろうし、もうこれ以上のことは望んでも仕方ないことなのだという諦めが必要なのだろう。これからも決して星には届かないのだと。
今の気持ちを書いたものではありますが、抽象的に暈かしてみました。ごちゃごちゃドロドロした細かい事実なんて文字にしてもわたしの主観ばかり入りまくりになって鬱陶しいだけと感じているので。
そんな思いとはまた別腹で、14日に届く予定の米津さんのニューシングルを心待ちにしていたり、2年ぶりにまた「源氏物語」にハマっていろいろと資料を含め読み始めてみたりと趣味的なことは楽しんでいたりします。
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