人と人なのだから
2016年12月24日 発達障害関連の書籍等 コメント (4) もうこのテーマで書くことは無いだろうと思っていたけど、先日涼女さんの記事を読ませて戴いて、結構根深い問題なんだよね…と、以前とはまた視点の違う「今のわたしならこう思う」ということを覚書してみたくなりました。
【これは「わたし」がそう思うのであって、誰にそうしろと押し付ける気は全くありません。】
発達障害が根っこにあるかもしれなくて、それで対人関係・社会性の問題がありありの人。自分もそうだし(今は前ほど問題はありませんが)、今仕事で接する人達の中にも思い当たる人っています。お客さんも含めると結構な数います。
えーと、もうぶっちゃけて言ってしまいますが、その人が障害かどうかなんて、正直「一般人」の周りの人達には「免罪符」にもなにもなりません。ハッキリ「迷惑なことをし続ける人は迷惑な人」でしかありません。
「あなたここがおかしいと思うよ。もっとこうしたほうがいいよ」と言いたくても言えない関係の人、ただの知り合い、だんだん避けますよね。できるだけ距離置きますよね。それで全然良いと思います。
立場上そうできない場合でも、心の中なら嫌い抜いて構わないし、その人が自分を考慮してくれないのに自分がなにもかもフォローしてあげようとかしないほうがいいです。そういう人に自分を「食い物」にされないほうが何よりも大事です。
あなたはあなたの「大事な人」「あなたのことをちゃんと考えてくれる人」「2ギブ1テイクで構わない人」にだけ、あなたの優しさをあげればいいのです。
発達障害その他の精神障害があっても↑のように思える人はもちろんいっぱいいますし、そう思える大事な人にだって成り得ます。そこは勘違いしないでね。
ただ、なんでもかんでも「発達障害だからできない、仕方ない…」って、じゃあ少しでも自分で自分のウィークポイントを自覚して、フォロー考えて工夫して、わたしたちなんてそうやったってどうしたって迷惑かけちゃうんだから、それ以上甘えてるとせっかくの小さな資質さえもダメになっちゃうぞ!って、そういうこと言う当事者には思います。
すごい厳しいこと言ってるのわかってますが、わたしは「TAWAMIさんってそういうこと言うんだ」って理由で嫌われても別に構いません。わたしも当事者です。性格は能天気だけど、心は狭いし、好き嫌いはハッキリしています。それが「わたし」なのでね。嫌いならきっと合わないんでしょう。
障害があろうとなかろうと、みんな「人と人」なんだと思います。
また直したり追記するかもしれません。
【これは「わたし」がそう思うのであって、誰にそうしろと押し付ける気は全くありません。】
発達障害が根っこにあるかもしれなくて、それで対人関係・社会性の問題がありありの人。自分もそうだし(今は前ほど問題はありませんが)、今仕事で接する人達の中にも思い当たる人っています。お客さんも含めると結構な数います。
えーと、もうぶっちゃけて言ってしまいますが、その人が障害かどうかなんて、正直「一般人」の周りの人達には「免罪符」にもなにもなりません。ハッキリ「迷惑なことをし続ける人は迷惑な人」でしかありません。
「あなたここがおかしいと思うよ。もっとこうしたほうがいいよ」と言いたくても言えない関係の人、ただの知り合い、だんだん避けますよね。できるだけ距離置きますよね。それで全然良いと思います。
立場上そうできない場合でも、心の中なら嫌い抜いて構わないし、その人が自分を考慮してくれないのに自分がなにもかもフォローしてあげようとかしないほうがいいです。そういう人に自分を「食い物」にされないほうが何よりも大事です。
あなたはあなたの「大事な人」「あなたのことをちゃんと考えてくれる人」「2ギブ1テイクで構わない人」にだけ、あなたの優しさをあげればいいのです。
発達障害その他の精神障害があっても↑のように思える人はもちろんいっぱいいますし、そう思える大事な人にだって成り得ます。そこは勘違いしないでね。
ただ、なんでもかんでも「発達障害だからできない、仕方ない…」って、じゃあ少しでも自分で自分のウィークポイントを自覚して、フォロー考えて工夫して、わたしたちなんてそうやったってどうしたって迷惑かけちゃうんだから、それ以上甘えてるとせっかくの小さな資質さえもダメになっちゃうぞ!って、そういうこと言う当事者には思います。
すごい厳しいこと言ってるのわかってますが、わたしは「TAWAMIさんってそういうこと言うんだ」って理由で嫌われても別に構いません。わたしも当事者です。性格は能天気だけど、心は狭いし、好き嫌いはハッキリしています。それが「わたし」なのでね。嫌いならきっと合わないんでしょう。
障害があろうとなかろうと、みんな「人と人」なんだと思います。
また直したり追記するかもしれません。
コメント
寝たきりで意識のないまま生かされている人や、他人に暴力を加えるような障害を持つ人を税金で生かしておく意味は?という加害者の気持ち少なからずわかります。
障害者をナイフで残虐に殺したのはひどいことだと思うけど、もし睡眠薬などで殺したら、どうだったんだろうって。
親しい人が障害のある人に殺されても罪にならない世の中で、何が正しいかなんて誰もわからないし、きれいごとではすまされないとおもうんです。
清水由貴子さんが障害のある母親が生き続けると、妹に苦労させるのは目に見えてるからと母親と心中しようとした気持ち、それしか選べなかった気持ちがわかります。
障害のある家族を施設に預けてる人にはわからないと思います。結局、自分だけ逝ってしまったけど、これからますます高齢者や障碍者に対する問題が増えていくと思います。
コメントありがとうございます。貴重なご意見だと思います。
わたしは妊娠中に「出生前診断」を受けることを肯定もします。結果如何で中絶もありだと考えます。人間そこまで神にはなれない、ということを自分自身で証明し続けてきたからです(対価を考えず人に尽くせる、という資質を持っている人はとてもとても少ないです)。
今回の主旨は「一緒に近辺社会で生活する(取り敢えず『施設』に入ることは想定していない)発達障害者について」で、そういう人は無自覚のまま人と摩擦を起こし続けやすく、相手と自分は(考えることも見えている物の角度も)違うとか、相手も努力している・苦労している、ということを「想像できない」人が多いので、そういう人に振り回されることはないんだよ、という意味で書かせてもらいました。
発達障害は努力できない・人を思いやれない障害では決してないので、そうしている(する意志がある)ことを相手にもちゃんと伝わるような生き方がわたしはいいな、と思っています。
重度の方を含む障害者全体の問題は、わたしもまだまだ学んで行かなければならないことが多いです。
長女とは「安楽死(自分の意志で)が認められるといいのにね」と話すこともあります。
誰が生きて誰が死ぬのかを他の人が決めるのは違うと思うんです。
それを言うと死刑制度を真っ向から反対することになるので、それすらもわからないです。
宗教もそうです。自分の信じてるものを他の人が信じていないからという理由で攻撃するのも同じ気がします。
倫理的な見地から物事を考えることになるので難しいですね。
いつか死ぬことだけは誰でも平等なら、わたしは自分が思うつまらないくだらない生き方や死に方はしないように、できる限り見て、聴いて、感じて、考えて、選び続けようと思います。
その繰り返しですね。